再録: ベイエリア写真談義 兼子裕代さんをお迎えして

kaneko

□ ゲスト 兼子裕代    Hiroyo Kaneko Photographs

■ 聞き手 小林美香 

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  • サンフランシスコへの留学
  • ながさき問答 
  • Fountains 
  • The Three Cornered World 
  • Sentimental Education
  • Picnic

サンフランシスコへの留学 

■ 兼子さんを紹介する意味も含めて、まず私と兼子さんが知り合った経緯を少しお話ししておきましょう。私は一昨年から昨年にかけて1年ほどアメリカに滞在していました。2007年9月から翌年6月までアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の招聘でニューヨークのICP(国際写真センター)で日本の現代写真を紹介する展覧会の仕事をして、その後サンフランシスコ近代美術館の写真部門からフェローシップを頂いて写真部門で3カ月研修をすることになったんです。サンフランシスコに移った翌日に、写真家でサンフランシスコ・アート・インスティテュートの先生でもあるリンダ・コナーさんからパーティーに誘って頂き、リンダさんの元教え子で日本人の方も来られるというので、紹介して頂いたのが兼子さんでした。でも、実はそこでの紹介が初めての接点というわけではなかったんです。私は2001年に『写真のキーワード 技術・表現・歴史』という本を協同翻訳して出版したのですが、刊行当時この本のことを取り上げて雑誌に記事を書きたい、ということで連絡を下さったライターの方が、兼子さんだったんです。その時何回かメールのやり取りをして知り合うようになったのですが、当時は実際に顔を合わせることはなくて、それから7年後に偶然の巡り合わせでサンフランシスコで初めてお会いすることになって、しかもお互いの家から数ブロックしか離れていないというご近所だったんですね。
私は車を持っていなかったので、兼子さんに色々な場所に連れて行って頂いたり、お友達を紹介して頂いたりして、おかげさまで楽しくサンフランシスコでの生活を満喫できました。今回兼子さんが一時帰国して展覧会も開催されたということなので、せっかくの機会だからサンフランシスコでの生活やこれまでの作品のことを伺いたい、と思っています。最初に知り合った頃は、東京でライターの仕事をされていたんですよね? 

□ 写真の仕事とライターの仕事をして、自分の作品も作っていたんです。ライターの仕事をするようになったきっかけは、作品制作以外に写真で仕事をしようと思うと、何もキャリアもない状態で出版社に行っても仕事にはならないので、何か自分のやりたいことを盛り込んでいった方が良いなと思ったんです。その頃写真を始めて海外のアーティストの活動に興味を持つようになって色々と見ていたので、そういう人たちのインタビューすることとその人たちの写真を撮ることを併せて企画を作って、出版社に持ち込んだりしていったんです。そういう仕事の中で、フランスのアーティストのジャン・マルク・ビュスタモントとかに実際会ってインタビューや記事を書くことが、自分にとってとても勉強になりましたし、作品を作る上でプラスになりました。

■         写真はどうやって勉強されたんですか? 

□ 日本では写真の勉強は全然していないんです。大学は仏文学科でしたし。1993年から1994年にかけて1年間ロンドンの小さなアートスクールで写真の基本的なことを勉強して、帰国後に自分なりに勉強したり、仕事を通して学んできたという感じなんです。自分でもラッキーだったと思うんですけど、『アサヒカメラ』の仕事で、ジャン・マルク・ビュスタモントやベアト・ストロイリ、トーマス・シュトルートとか結構すごい人の取材をさせてもらえたんですよ。ベアトとは、今でもたまにメールのやり取りをしています。そういう仕事を何年か経験した後、もっと本格的に写真を勉強して、自分の作品を重点的にやりたいなと思うようになって、大学院というアカデミックな環境で勉強してみるのはどうだろうと思って、留学したんです。 

■        留学先をサンフランシスコ・アート・インスティテュート(SFAI)にした決め手は何だったのでしょうか? 

□ もちろんいくつかの学校を受験してみたんですよ。アメリカの中で3校受けましたね。受験を考えていた頃、ニューヨークよりも西海岸がいいらしいよ、という噂を知り合った海外の作家とかから聞いていたんですね。駄目もとでイエール大学も受けて失敗しましたが(笑)。どういう先生が教えているのかということもありましたが、卒業生としてどういう写真家を輩出しているのか、ということに興味がありましたね。UCLAで教えているジェームズ・ウェリングという写真家にもすごく興味があったんですけど、入れなくて。イエール大学もそうなんですけど、名門校は大学院生を毎年一人ぐらいしか取らないんですよ。SFAIの卒業生にはルイス・ボルツとかキャサリン・オピーとか、アニー・リーボビッツとか名の通った写真家がいて、いいんじゃないかと思ったんですね。2002年に渡米して大学院受験をして、2003年から大学院に入学しました。SFAIは規模としてはあまり大きくないんですけど、写真学科の大学院で一学年10人ぐらいでしたね。他の学科とも交流が盛んで、デジタル・メディアとか映像、インスタレーションのようなジャンルともつながりがあって、自由な雰囲気の校風でしたね。韓国や台湾からの留学生も結構いましたし。 

■         留学中は、日本に帰ってくることもあったんですか? 

□ アメリカの大学は休みの期間が長いので、夏には帰国して撮影したりしていましたね。大学院を卒業してからは、アーティスト・ビザを取得しました。ビザを取るのは難しいという話も聞いたりしていたんですが、私の場合は、ある程度日本での活動歴や展覧会の実績もあったのでビザが取れたんだと思います。在学中は年に一度日本に帰っていて、卒業する前後からは結構日本で撮影する作品を多く作り始めたので、それ以降は年に二回、二、三週間ずつ帰ってきていますね。 

 

ながさき問答 Nagasaki Dialog (2001-2, 2005)
kaneko-nagasaki
 

■ それでは、アメリカと日本を行き来しながら作られてきた作品についてお話して頂こうと思います。まず、今回の一時帰国で展覧会を開催された「ながさき問答」ですが、この作品は渡米される前から制作されていて、東京都国立近代美術館で2002年に開催されたグループ展「場所と光景」にも出品されています。兼子さんは、長期にわたってインターバルをおきつつ一つの作品を制作しながら、それと同時進行で別の作品を制作されていたりもしますね。作品がまとまりを帯びていく過程についてお話して頂けますか。

□ この作品を集中して制作していたのは、2001−2年なんですが、サンフランシスコに行った後も、二回ぐらい長崎に撮影に行って、同じ場所を撮ったり、被爆者の方のポートレートを撮影したりしています。私は日常的にカメラを持ち歩いてスナップショットを撮る方ではなく、これを撮ろう、と決めて撮る方なんですね。後ほど紹介する「The Three Cornered World」という作品は、35㎜のカメラを使っていますが、それ以外は4×5の大判カメラを使っているので、決めていかないと撮れないんですよ。 

■ この作品を作るきっかけは何だったんですか?

□ そもそもは、1996年に長崎の諫早市にいるすごく親しい友人を訪ねて、観光目的で行ったというのが最初のきっかけです。彼女の妹さんが島原に住んでいて、雲仙普賢岳の噴火で被災してそこから命からがら避難したそうなんです。そういう場所に連れて行ってくれたんですよ、観光地とかじゃなくて。その時点で、災害から二年ぐらい経過していたんですけれど、土地が自然災害によって変わっていくということを目の当たりにしたのが興味深かったんです。普賢岳や干拓された諫早湾とかも見ることができて、いろんな理由や原因によって土地が変化していくというようなことが不思議な感じというか、面白いなと思って写真を撮り始めました。そういうことに加えて、長崎の地形は起伏に富んでいるので、4×5のカメラで撮るのに適していると思ったんですね。4×5で撮ると、土地の特徴というか、その起伏の層がよく見えてくるんです。この写真を撮り始める前の年に私、ジャン・マルク・ビュスタモントが日本に撮影旅行をした時に通訳兼アシスタントをしたんです。その経験から、大判カメラと空間の関係のことを学んでいたので、それで4×5を使って撮り始めた、というところもあります。 

■ 長崎の周辺の風景をとらえた写真を見ていると、それぞれの土地の起伏や土石流のもたらした地形の変化、パースペクティブの生み出す独特な空間感覚とか、植生やその色合いに眼がいきますね。

□         長崎で撮り始めた頃は、市内より普賢岳とか諫早湾の辺りとか周辺の地域を撮っていました。2001年9月11日にニューヨークで同時多発テロが起きた時に、私はちょうど長崎にいたんですね。それまでは、長崎市内に行って写真を撮る、という気分にはなっていなかったんですけど、あの事件があって以降、何か長崎を撮らなければいけないという気になり、その滞在中に長崎の爆心地を撮りにいったんですよ。今でこそ平和で、修学旅行生があちこちにいるという状況ですけれどね。 

■         広島の爆心地は、原爆ドームというモニュメントが残されていますけど、長崎の場合はそういうモニュメントの存在があまり目立たなくて、場所の広がりの方に眼がいきますね。私は幼い頃から広島に住んでいた高校を卒業してから京都に移ったんですけれど、京都市内の御所の辺りを歩いていて驚いたのが、街中にこんなに大きな木があるのか、ということだったんです。つまり、私が広島で育つ中で見て来た木というのは、街が一度焼けてしまった後に植えられた木だったということですね。長崎市内の写真を見ていても私が子どもの頃に見ていた植生に近いものを感じます。

□         最初の頃は、長崎の地形の面白さとかその変化に興味を持って撮り始めたんですけど、爆心地の写真を撮ったころから、原爆のことを避けてはいけないような観念に囚われてたんですね。このシリーズを撮っているとき、実は私かなり辛かったんですね。自分が長崎出身でもないのに、原爆に関わる写真を撮ることが、自分にとってどういうことなのか、自分の中で整理もつかないし、でもやらなきゃいけない、というか。そういう状態でどんどん進んでいったという感じです。自分の中でも悩むことはあったんですが、撮影する過程で被爆者の方に会ってお話して、知り合う中でお宅に伺ってポートレート写真を撮るようになったんです。その合間に市内の写真を撮ったりしました。日本人の写真家に限らず、被爆者の方の写真を撮っている人がおられますが、私の場合なかなかそこに集中する、っていうふうには思えなくて。長崎の平和推進協会で被爆された方を紹介して頂いて、そのなかから個人的にお会いしてお話をうかがう中で関係が続いていった方にポートレートを撮らせて頂きました。
このシリーズの中で、森が写っているものが何点かありますが、被爆者の方のお話で、被爆当時の体験として裏山に逃げたこととか、知り合いや親戚の家に逃れるために山を越えていったということを聞いていたんですね。この写真を撮影していたときは、諫早の友人の家に滞在して、長崎まで電車で30分ほど時間をかけて通っていたので、途中下車をして、こういうところを通って被爆者の方は逃げて来られたんだな、と思って写真を撮ったりしていました。ポートレートを撮らせて頂いた方のなかには、東松照明さんも撮られている片岡津代さんもいます。片岡さんも平和推進協会の方からの紹介でお会いすることになって、色々なお話を伺いました。敬虔なクリスチャンで、90歳に近いんですよね。

■ この長崎のシリーズもそうなんですが、兼子さんの作品を特徴づける要素として、木や植生があると思うんですね。普段の何気ない生活ではあまり意識に上ることはないかもしれませんが、植生というのはその土地の特徴そのものを物語るものなんですよね。

□         別に植物に詳しいというわけではなくて、この植物が何なのかと訊かれても判らないんですけれど、草木がもしゃもしゃと生えている様子を見ると気になって仕方がないんですよね。1997年から1998年にかけて街中の植え込みを撮影した写真をまとめて1999年に「Along Leaves」という本を作っています。 

 

Fountains (2003-4)
Kaneko Fountains
  

■ 次はFountainというシリーズについてですが、この作品はサンフランシスコで大学院に通っていた頃の作品ですね。日本とサンフランシスコ両方で撮られていますね。キャプションに撮影された場所が記されていないので、最初どこで撮影されたものかを意識しながら見ていなかったんですけども、よくよく見ていくと日本とアメリカの環境の違いも見えてきて面白いですね。そもそも噴水に惹かれていった理由って何だったんでしょうか? 

□ サンフランシスコに行ってしばらくは何を撮ったらいいのやら、という状態に陥っていたんですね。初めて来た場所でもあったので。サンフランシスコは観光都市ですから、観光的というか奇麗な場所を撮った写真になってしまいがちだし、どうしようかと思って、わりとクローズアップの写真を撮っていたんですよ。建物の角とかね。その中に噴水の写真もあったんです。それまでは人のいない状態で街の断片を切り取るような写真が多くて、そうするとどうしても画面の中に動きがなくなるんですが、噴水の写真は動きがあるというかダイナミックな感じがしたんです。それで噴水を集中して撮ってみようかなという気になったのがきっかけです。

■ 夏に日本に帰省されていて、日本の夏は暑いから水辺に行きたいというような気持ちも働いたんじゃないですか? 

□ それももちろんあると思いますね。それまで噴水とか行ったことはなかったんですけど、東京で噴水に行ってみると、水浴びとかできるようになっているところが多いんですよね。子供たちが楽しそうに遊んでいたりして、面白いなと思いました。

■ サンフランシスコのExploratoriumという博物館の近くの公園で撮られたものがありますが、噴水のまわりにフェンスが張られていますね。水と人の間に距離が作られているというか、日本の噴水のようにいろんな人や子どもが寄って遊んでいる、という感じではないですね。アメリカですから、危険なこともあったりするという理由もあって、水場で自由に子どもを遊ばせるということもあまりないのかもしれませんね。それから、噴水ってその場にいる人の視線を誘導するような役割を果たすようなこともありますよね。噴水に視線を向けている人に兼子さんがカメラを向けている、という視点の設け方も面白いと思いますね。アメリカで撮られたものと日本で撮られたものを比較してみると、造園に対する考え方の違いみたいなものも見えてきて、それも興味深い。 

□ このシリーズも4×5のカメラを三脚を立てて撮っているんですけれど、人が噴水に気をとられて夢中になっているせいか、カメラが意識されないことが多くって、こちらとしては撮りやすかったですね。同じ場所にいる人がバラバラなことをしているのが見えるというのも面白いんですよね。 

■ 水のもたらす効果、というのかもしれませんが、蒸気や噴水を見ていると、現実からつながっている世界なのに別の世界に意識が導かれていくような気もしますね。 

The Three Cornered World (2004-8)
Kaneko The Three Cornerd World

■ Fountainのように意識してシリーズとして撮影している作品のほかに、撮り続けていくうちに徐々に作品として形が成り立ってくるという類の作品もありますね。 

□ 「The Three Cornered World」は、4×5で作品を撮っている合間に、35㎜カメラを使って撮ってきたものです。サンフランシスコで撮り始めたんですけれど、日本に帰ってくるときに東京の実家付近や、旅行でどこかにでかけたときに撮ったりしています。共通点としてはすべて縦位置ということですね。

■ タイトルが「The Three Cornered World」というものですが、どういう意味でつけられたのでしょうか? 

□ これは夏目漱石の『草枕』の英訳なんです。この作品を作りだした頃に、たまたま『草枕』を読んだら、冒頭部分で日本語が体にしみ込むような気がしたんですよね。サンフランシスコでしばらく英語だけの世界に入っていて、学生だったので英語で読まなければならなかったものも多かったし、日本語訳が出ているものは日本語の本を読んだりはしていたんですけれど、『草枕』を読んだときに、意味を伝えるだけの言葉とはまったく違う文学の言葉が心に滲みてくるという感覚を初めて味わったんです。
冒頭の一番有名な文章で「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とあって、「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」と続くんですね。この文章を読んで、自分のことを振り返ってみると、東京からサンフランシスコに移って、それからまた東京に帰ってきたりと、移動を続けている中で、自分が芸術、アートを作っていくことの核になることを端的に言い表しているなと思ったんです。だから、どんなところで撮った写真でも混ぜていっちゃえばいいんじゃないかな、と思ってまとめてきたんですね。このことは、作品の解説の中でも書いています。
サンフランシスコで撮影した場所についてお話しますと、サード・ストリートというかなり大きな通りが街の真ん中から端の方までのびていて、途中からゲトーの地域に入っていくんですね。私が通っていた学校の大学院のスタジオもその近くにあったりして、その辺りまでいくと、それまで知っていたサンフランシスコの中心地とはまったく違う風景が広がっていることに気がついて、ある時期集中して撮ったりしていました。このシリーズは、いろいろな場所を混ぜていっているので、どこか特徴のある場所というのではなく、どこでもあり得る風景という感じですね。

■ 私もしばらくサンフランシスコに住んでいたので、写真を見ているとサンフランシスコの隆起している独特の地形のことを思い出します。街中で坂を上っていくと、突然バーンと違う風景が目の前に広がるという、独特の視覚経験がありますよね。平地を歩いていると、ある程度先まで見通せますけど、坂を上る途中で一度視界が塞がれて、上までのぼるとまた別の視界が広がるというね。この作品は、本当に色々な場所の写真が混ざっていますが、最初にこのシリーズ作品を見た時に、兼子さんがものを見る癖みたいなもの、縦位置で画面の中に縦の線があって、画面の横から二本の補助線が出ているような構図、三本の線で三つの角ができるような構図のことを指しているのかな、とも思ったんですよ。 

□ 三つ角ができるというのも、後になって気づいたことなんですよ。それでタイトルに合っているじゃないか、と思って。どこにいても、ついそういう見方をしてしまうというか。 

■ その縦の線になっているものも、木が多いですね。このシリーズの作品を追って見ていくと光の感じとか植生の違いで、それぞれの場所の微妙な特徴が表れているような気がします。 

□         このシリーズの中に、静岡に住んでいた母方の祖父に関連するものが三枚あります。祖父は2年前に100歳で他界したんですけど、祖父が育てていた庭の大きな盆栽、これは100年以上も育てられてきたもので、私にとっては祖父の象徴のようなものですね。それから収穫前の茶畑と、祖父のお墓です。最初はこの写真を作品にする意図はなかったんですよ。祖父が100歳を迎えるというので、会っておかなきゃと思って会って写真を撮って、その後この茶畑と盆栽の写真を母が祖父に見せてくれたそうです。そのあとすぐに祖父は亡くなったんですけど、祖父が写真を見てくれたということが私の気持ちの中にも残っていて、それで写真を改めて見直して作品の中にいれようと思ったんです。

■ この茶畑の写真は、現在サンフランシスコ近代美術館で開催されているアジアの写真家を紹介するグループ展Photography Now: China, Japan, Koreaに出品されているそうですね。 

Sentimental Education (2005-) 
Kaneko Sentimental

■ 続いてSentimental Educationですが、この作品はサンタフェのCENTERというところが主宰するSanta Fe Prizeでグランプリを受賞されたそうですが、どういう経緯で受賞に至ったんですか? 

□ Santa Fe Prizeは、公募ではなくて全米のキュレーターやギャラリーなど写真の関係者が写真家を推薦するんですね。で,私もノミネートされて、資料やポートフォリオを送って、審査されたました。毎回審査員がいて、今回はLACMA(Los Angeles County Museum of Art)の写真部門のディレクターだったシャーロット・コットンが審査員でした。90人ぐらいがノミネートされていて、まさか私が受賞するとは思っていなかったので吃驚しました。受賞して賞金を頂いたり、センターが主宰するポートフォリオレビューに招待されたり、写真集の出版のオファーを頂いたり、というような感じです。

■         この作品はご家族と温泉に入っている様子をとらえたものですが、どういう経緯で制作するようになったんでしょうか? 

□ Fountainのシリーズを作った頃から、人の動きや関係性にすごく興味が出てきたんですよね。それまでは風景を撮ることの方が多かったんですけど。水と戯れて夢中になる子どもたちとかも面白かったですし。それで水と人ということからの展開で考えると、お風呂があるじゃないか、と思って。で、お風呂となるとさすがに家族しか撮影を頼めないので、家族を説得して撮り始めたんです。家族といっても、私の家族というのがメンバーが少ないんですね。両親と私と姉の4人家族で、姉が当時結婚していたので、姉夫婦とその娘という家族ですね。で、それぞれの家族と一緒に温泉旅館に行って、チェックインしてすぐに明るいうちから温泉や家族風呂に入るんです。

■ 兼子さんがすべて段取りをするんですか? 

□ そうです。家族のスケジュールを訊いて、アメリカからインターネットで温泉旅館の予約とかして(笑)。最初は、家族としてもそんなに真剣なものだとは思っていないというか、私は真剣そのものなんですけど、家族は「温泉行けるからいいじゃない。」みたいな気分で。それで予定が変わったとか、やっぱり行けない、とか言われるとすごい困るんですけどね。

■ ご両親と入る時と、お姉さんの家族と入る時があるわけですね。 

□ そうですね、家族が少ないんでメンバーが足りない、みたいになって私も入ってます。あと、家族を裸にしておいて、自分が入らないのは卑怯だというのもありますし(笑)ほかのシリーズと同様に、4×5のカメラを使っているので三脚を立ててますし、レリーズを使っています。裸であちこち動き回らないといけないので結構大変なんです。

■ 日の高いうちから温泉に入っているので、タイルの目地とか浴槽のお湯が光を反射している様子がとてもきれいなんですよね。見ているこちらもお湯に浸かっているような気分になるというか。画面の表面張力がふと緩んで、引き込まれるような印象を受けますね。タイトルは「Sentimental Education(感情教育)」ですが、このタイトルはどういうところからつけられたんですか? 

□ フローベールの「感情教育」とは全く内容的には関係ないのですが、そこから取りました。当時アメリカで生活して2年ぐらい経っていたんですけど、アメリカで生活するのって結構大変ですよね。英語で生活しなきゃいけないし、アメリカっていろんな意味で人がタフですよね。私はアメリカに行く前には、アメリカ人ってフレンドリーだと勝手に思い込んでいたんですけど、実際に生活してみると人間関係で非常につらい部分があって、でも通じ合うということもあって、そうすると感情が通い合うということに対するありがたみが以前にも増したわけです。それで人とのやり取りや感情のつながりってどうなっているんだろう、どういう経験を通して出来上がってきたんだろう、ってことに興味がわいてきたんです。
それで、私の場合、お風呂が家族とのやり取りの原点みたいなところもありますしね。タフな経験をして、タフな部分を見せるということも、作品の作り方としてあったかもしれないんですけれど、とりあえずそういうネガティブな方向じゃなくて、良い方向に持っていきたいというのがあったんですね。だから、「Sentimental Education」というのは、たんにお風呂という文化のことだけじゃなくて、私たちの感情を形作っているものは一体なんだろうという意味でつけたんです。35㎜のカメラを使ってスナップとして、もっと入り込むような感じの撮り方になったかもしれませんが、4×5のカメラを使うことでちょっと引いた感じでの捉え方になったと思いますね。

■ 4×5のフィルムの精度に因るのだと思いますが、体型や皮膚の感じがよく再現されていますよね。とくに姪御さんの成長の過程がありありとわかります。最初は割と引き気味に撮ってらっしゃったんですよね。それからお互いに慣れてきて、もう少し近づいて撮るような感じになってきていますね。 

□ お風呂に入っている時の顔を正面からポートレートで撮ってみたくなったんですね。入っている人同士や、周囲の環境との関係というだけではなく、撮っている私との関係をもう少し強く出してみたくなったというか。義理の兄が湯船に入っている写真がありますが、義理の兄はこの写真を撮った半年後に心臓発作で亡くなったんですよ。亡くなる直前にこのシリーズの写真を当時フランスに住んでいた姉の家族に見せたんですよ。義理の兄はフランス哲学の研究者で慶應大学で教えていたんですけど、私のそれまでの作品をあまり評価していないような感じだったんですけど、この作品については本当に気に入ってくれて、文章を書いてくれました。それが亡くなる直前だったんですよ。写真と死がつながっているということは、歴史的にも、またロラン・バルトの著作なんかでも語られてきていて、私としても勉強して理解していたつもりだったんだけど、実際の体験として自分の身に降り掛かったことで不思議な感じがしましたね。祖父が亡くなった時もそうだったんですが。 

 Picnics  (2007-)
Kaneko Picnic

■ それでは最後の作品になりますが、「Picnic」これは現在も進行中の作品で、お花見の様子をとらえたものですね。 

□ 青森の弘前公園で撮っています。私は子供の頃9歳ぐらいまで青森と弘前に住んでいて、この公園の近くに住んでいたこともあったんです。イメージの中で桜祭りの時の印象が、ファンタジーのように頭の中で膨らんで2007年に写真を撮りに行ったんですよ。

■ 見ていると浮遊感、というか現実から少し離れているかのような印象を受けますね。桜の花とその木の影がそのディテールと共に写し取られているというのもありますが、桜の木とその場所の関係としてふわっと立ち上がって見えてくる感じがします。浮世離れ、っていうとおかしいかもしれませんが。 

□ でも、実際に行ってみると本当にそういう感じなんですよね。私はそんなに全国各地の桜祭りを訪ねて廻っているわけではないんですけれども、東京とかでやっている桜祭りとは全然違って、昔からずっと続いている花見、普遍的な人間の営みとして見えてくるというか。

■ 光の色が、北の光というか、関東よりはもっと白くて青っぽいので、浮遊感というのはそのせいもあるかもしれませんね。 

□ 写っている人は現代の人たちなんですけど、なんか時間を越えているかのような感じがするんですよね。この公園は弘前城の敷地でもあるんですよ。撮影には、私の家族もついてきたりもしたので、家族の写真を撮っていたりもしています。 

■         これまでに7、8年かけて作ってこられた作品を振り返ってきましたけれども、改めて作品を見てどうですか? 

□ そうですね、結構日本で撮っているものが多いな,という感じですね。外国で生活をして、日本から離れているからこそ日本のことを考えるようになって作品制作の動機になっていることもあると思うのですが、どこかに行ってぱっぱと簡単に写真って撮れないと思うんですよね。アメリカに行って7年経ってようやくアメリカで撮りたいものが見えてきた感じなんですよね。結局7年かかったというか。これまでは、撮りたいと思っていることが、日本の方がやりやすかったというか。さっき、アメリカ人がタフだ、ということを言ってしまいましたが、それはアメリカ人がタフで日本人が優しいとかそういうことじゃなくて、言葉や文化の違いもあって、人間関係ってこんなに大変なんだ、というのを実感することで、それをどう表現に結びつけていくのかということを考えてやってきた、という感じなんですよね。だから、この7年間は自分にとって家族のこととか、自分が身を置いてきた環境や、子供の頃を過ごした弘前こととか遡るような行為でもあったんだな、と思います。

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