再録:写真の内側、と外側  vol.1 「 装幀写真家 」という立ち位置

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□      林和美 林和美写真画廊
■      小林美香 Mika Kobayashi

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  • 「装幀写真家」の仕事の成り立ち
  • 『ゆびさき』と『装幀写真』  装幀 Before/After
  • 1枚の写真へのさまざまな解釈
  • 一つの作品のさまざまな装幀

「装幀写真家」の仕事の成り立ち

□ ギャラリーNadarのディレクターとして仕事をしていて、写真家としてお話するという機会はあまりないんですけれど、ところで写真家とカメラマンの違いって何だと思いますか?

■ 雇われている度合いみたいなものでしょうか。雑誌や広告のカメラマンの仕事というと依頼を受けて制作して納品するという感じがしますね。写真家というと作品制作に取り組んでいる人、という意味に近い気がします。

□ なんでそういうことを訊いたか、というと「装幀写真家」って、「写真家」と「カメラマン」の間のような感じがするんですよね。僕は「装幀写真家」と名乗っていますが、そんなに沢山仕事をしているわけではありません。書籍のコーナーに行ってもらうとわかりますが、装幀に写真が使われているというのはあまり多くなくて、イラストを使ったものがほとんどなんですよ。
写真が使われている場合でも、ストックフォトの写真が使われていることが多いんです。つまり、装幀を制作するデザイナーが、本のイメージに合うものを選ぶ、というのが写真が使われる方法なんですね。イラストの場合だと、本を制作する最初の段階からイラストレーターの人に、こんな感じで描いて下さい、という依頼を出していくんだと思うんですけど、写真家の場合はそういうふうには仕事が進まないんですよね。

■ 確かに、セットアップして撮影するというやり方だったら成立するかもしれないけど、スナップショットの場合ではそういう風に指示通りに撮る、っていうことはあり得ないですよね。

□ 装幀の仕事のきっかけについて話しますと、僕は2003年に青幻舎という出版社から『ゆびさき』という写真集を出したんですけれども、その中の写真の一枚が新潮社から出た神崎京介さんという作家の『ひみつのとき』という小説の装幀に使われたんです。僕の写真集がたまたま新潮社の装幀室にあって、使わせてくれないかと連絡を頂いたんです。『ゆびさき』を出した5年後に『装幀写真』という写真集を、ナダール書林という自分が作った出版社から出しています。この本では序文の詩を詩人の谷川俊太郎さんに書いて頂きました。

■ それでは、この二冊の本を出された経緯や、林さんの写真がどのように装幀に使われてきたのか、というお話をして頂けますか。

□ 『ゆびさき』の写真を撮り始めたのは、ギャラリーを始めた頃ですから2000年ぐらいなんですよ。その頃から自分が好きなものを撮ろう、という気持ちが固まってきて、その好きなものというのが女の人と花だったわけです(笑)。僕は大学を卒業してから、まず広告代理店で営業の仕事をしました。飛び込みで営業とかやらされていたんですけど、仕事が合わなくて9カ月で辞めてしまいました。そのあとフォトエージェンシーで写真のコーディネートの仕事をしていました。

■ それは90年代前半からのことですか?

□ そうですね、今はストックフォト・エジェンシーもオンライン化されていますが、当時はまだポジフィルムを使っていて、電話での依頼でお客さんの要望にあった写真を選んだりしていました。その仕事は8年やっていましたね。営業の仕事よりも写真に近い仕事だったので、楽しかったんですよ。会社員として仕事をしていた頃はあまり写真を撮っていなくて、ギャラリーを始めた頃から写真が撮れるようになった感じですね。

■ 写真集を出すきっかけは何だったんですか?

□      これもギャラリーを始めたことと関連しているんです。ギャラリーは基本的に貸しギャラリーなんですが、年に何回か企画展をすることにして、佐内正史さんの「俺の車」という展覧会をやったんですね。「俺の車」は青幻舎から写真集として出版されたので、青幻舎の方がギャラリーに来て下さって面識ができて。その後青幻舎の姫野さんに写真を何回か見せに行って2年後に『ゆびさき』の出版に至ったということなんです。

『ゆびさき』と『装幀写真』 装幀Before/After

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■ 『ゆびさき』の写真を見ていると、引いた距離から撮るというのではなく、近寄ってものの部分を断片的にとらえて、それをつないでいく,という感じの撮り方、編集の仕方ですね。

□ 写真を撮る人って、撮る行為が好きな人もいれば、プリントをすることが好きな人もいると思うんですけど、僕の場合はファインダーをのぞいて切り取るっていう段階で幸せを感じるんですよ。どんどん切り取っていって、対象が花なのか人なのか判らなくなるところまでいって、最後に一本のきれいな線が残ればいいなと思っているんですね。

■ 後に刊行される『装幀写真』もそうですけれども、フレームに滲むような黒い縁を残してますよね。それはこの頃からスタイルとして決めているんですか?

□ そうですね。写真の外側との境界を曖昧にするというのと、あとはトリミングしていないということを見せる意味もあります。像の外の余白にフェードアウトしていく感じが好きなんです。僕は根が「ロマンチック馬鹿」なところがあるので、見る人が記憶や追憶を重ね合わせて、投影してくれたらいいなと思っています。見る人を白昼夢のなかに誘いたいというか。

■ そうすると、この滲みが見る人の想いを導入させるような役割を果たしている、と言えるのかもしれませんね。

□ さきほども言いましたが、『ゆびさき』の中に収められている自分の家のバスルームを撮った一枚が『ひみつのとき』という本の装幀に使われたんですが、これが官能小説なんですね。初めてお話を頂いた時に官能小説と訊いて、あまりエロい本に使われるのはどうかな、とも思ったんですが、出版社の趣旨としては女性に売り込んでいきたいということがあって、女性の手にも取りやすい装幀にしたい、ということでこの写真が選ばれたそうです。ちなみに、小説の内容は不倫モノでしたね (笑) 。この装幀を見ると、バスルームがホテルのバスルームに見えてくる。
このお仕事を頂いて、装幀っていいな、と思ったんですね。僕は音楽よりも小説や言葉の世界がもともと好きだったんです。振り返ってみると、学生の頃は自分の写真は弱い、とか空気感だけだ、みたいなことを廻りから言われていて鬱屈していたんですよ、一枚でバーンと主張するような強さがない、って言われたりしてね。弱いって言われると駄目な気がしていたんですけれど、装幀だったらうまくいくんじゃないか、小説の世界に読み手を引き込むような役割を果たせるんじゃないか、と思ったんです。自分で装幀という道を目指していたわけではなくて、依頼を受けることで、そういう道もあるんだな、って周囲の人から気づかされた感じです。写真が売れるかとか、写真がアートかどうか云々を言うよりも、とにかく世に出て行くことが写真にとって幸せなことだと思うんですよ。どういう形であれね。

■ この本の装幀についても言えることなんですが、林さんの写真はゴチックのようながっしりした書体より、明朝のような書体が似合いますね。あと、縦書きが似合う気がします。私は外国で生活した経験があるのでそう感じるのかもしれませんが、この縦書きにつながる造形感覚って日本的なのかもしれないですね。

□ 『ゆびさき』っていうタイトルは、写真の中に指先が写っているのもありますが、それに加えて体の中で神経が集中していて、一番敏感なところという意味もあって、つけたんです。

■ 装幀ということに結びつけると、本って触るものだから、「ゆびさき」って合ってますよね。触りたくなる写真,という感じで。『装幀写真』に話を進めますが、モノクロ写真からカラー写真になったことで、より軽やかというか明るくなった感じもしますね。それから縦位置の写真も増えた。これは装幀として使われることを意識しているんですか?

□ もちろん。

■ 『装幀写真』を見ていると、写真の小ささが引き立つような構成ですよね。写真の廻りの余白の部分が広いから。あと紙の質と印刷の仕方が写真の湿度というか空気感をうまく引き出していますよね。

□ 装幀を意識しながら写真を撮るようになったので、一枚一枚の写真についての物語を喋れるようになった気がします。

■ 最初の本以降はどうやって装幀の仕事を続けてきたんですか?

□ 色々な出版社に持ち込みで営業をしにいったりもしていますね。基本的には「待ち」なんですよ。うまくタイミングがあえば使ってもらえるんですが、そんなに多くはないですよ。イラストレーターの場合だと、「この人に頼んでみよう」という感じで仕事が決まるんですが、写真の場合は写真家ではなく、「この写真を使ってみようか」という決まり方になるんです。

■ イラストレーターの場合だと、作品のイメージにあわせて、イラストを修正したり変えたり、ということができても、写真の場合はできないですものね。

□ 日本図書設計家協会という装幀家と装画家が入る団体があって、私も会員になったんですけれど、写真家は僕だけなんです。女優さんとかを撮る写真家で、その人の写真が装幀に使われるというパターンはあっても、写真家の作品として撮られたものが装幀に使われるということはまだまだ少ないんですよ。あと制作に割り当てられる予算と時間の問題もありますよね。文庫本の場合一冊の装幀制作費がデザインを含めて10 〜12万円程度なので、その制約の中で素材を選んで使うとなると選択肢が限られてくるわけです。

■ それでは、装幀に使われた写真と、実際の本の装幀をいくつかご覧頂きたいと思います。デザインの施し方やタイトルがつけられることで写真から引き出されるニュアンスが変わってくるところが見ていて面白いですよね。印刷の仕方やデザインの都合上、写真の色あいが変わっているものもありますね。それから、装幀前と装幀後を見比べてみると林さんの写真はタイトルを入れやすい、文字の配置を考えやすいものをデザイナーの方が選んでいるというのがよくわかります。

□ 文庫本の装幀を何点か紹介しますが、だいたい恋愛小説の表紙に使われることが多いですね。鷺沢萌さんの3冊の本に使って頂いたことが印象に残っていますね。装幀は、編集、デザイナーとのチームプレーで成り立っているので、鷺沢さんの本のように続けてお仕事をさせて頂くのはありがたいことだと思っています。 

Sotei Before After
 

1枚の写真へのさまざまな解釈

■ 林さんの写真を拝見していて思うのは、写真作品って、写真家の意図することが重要だというのも一つにはあるんだけれども、別の要素、例えば小説だったらその小説の世界と結びつくことによってまた別の意味合いが生み出されてくることがあって、それが興味深いんですよね。装幀が形作られる中で写真家は主役に立つわけではないけれども、文章の世界に読者を誘っていく役割を果たすわけだし、写真から喚起されることの幅みたいなものが考えられると思うんですね。
ここで紹介したいのが、Covering Photographyというサイトです。これはボストン大学のKarl Badenさんという先生がディレクションして作っているサイトなんですが、写真史上著名な写真家の作品が装幀に使われた本の作例を公開しているデータベースで、著者やデザイナー、出版社、写真家の名前で検索ができるようになっているんです。サイトを見ていると、あんな写真がこんな風に使われているんだ,っていう発見があったり、同じ写真作品を使っていても、デザインやレイアウト、トリミング、タイポグラフィーやタイトル、配色によってニュアンスが変化するのわかったりするんですね。このサイトの中から見つけた三人の写真家の作品と、装幀としての使われ方をご紹介したいと思います。
最初に紹介するのは、ドロシア・ラングの「カリフォルニア州ロサンゼルスへと向かう道 1937年3月」という写真です。彼女はアメリカの大恐慌時代に、農村地帯の窮状と復興を記録するFSA(Farm Security Administration農業保証局)という政府のプロジェクトに参加して、主に西海岸で窮状に陥っている人たち、移動労働者たちを撮影をしていたことで知られています。この写真に写っている人も、おそらくはそういった農村地帯の人なのでしょう。舗装されていない道を歩く二人の男性が背後からとらえられていて、道の右側に立っている看板には列車の座席に座った男性と「今度来る時は電車に乗ってリラックスしよう!」というキャッチフレーズが描かれています。遠く歩いて行かなければならない厳しい現実の旅路と、看板が謳う明るい未来とのギャップが見て取れるわけです。

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この写真を使った4冊の本の表紙を見てみましょう。まず、「A Long Road Home: Journeys through America’s Present in Search of  America’s Past」という本です。「長い家路:アメリカの過去を探求するアメリカの今を巡る旅」ということで、歴史を巡る旅路がこの写真から想起されているというわけですね。 次は「The American Fantasies Collected Poems 1945-1981」。これはいくつかの写真がコラージュされたような感じで、印刷を重ねて掠れたような処理が施されています。「Lost High-Way: Journey and Arrivals of American Musicians」は、着色が施されていいて、「アメリカのミュージシャンの旅と到着」という副題から、この男性たちが旅回りのミュージシャンに見立てられているようですね。「So Brave, Young and Handsome(勇敢で、若く、凛々しい)」は、着色されている上に空が上の方まで描き足されています。しかも画面右側にあった看板は消されていますね。映画のポスターを彷彿させたりもしますね。こうやって見比べてみると、困窮した農村を記録したドキュメンタリー写真が、いつの間にか、旅や英雄的な物語までも彷彿させるイメージとして使われていることがわかります。

二枚目は、アンドレ・ケルテスの「マルティニーク、1972年 1月1日」」という作品です。水辺に面した建物のテラスで、磨りガラスの向こう側に佇んでいる人のシルエットが映っているという情景をとらえたもので、テラスの手すりや磨りガラスが作り出すシャープな構図と、水面、ぼやけたシルエットの漠然と印象が相まって、私自身がケルテスの写真の中でもすごく好きな一枚です。
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「Hotel of the Heart(心のホテル)」という詩集では、表紙は水平線とテラスしか写っていませんが、裏表紙まで見ると1枚の写真になっているのがわかる、と。テラスをホテルと連想づけているわけですね。「False Papers Essays on Exile and Memory(偽造書類:亡命と記憶)」では、画面がかなりトリミングされていて、磨りガラスの縁が画面の中心に来ていて、磨りガラスで隠された人物のシルエットが素性を明かせない人の存在を連想させます。「Thanksgiving Over the Water(水越しの感謝祭)」という詩集。これは水辺ということで選ばれたのでしょうか。「Space Cruiser Inquiry: True Guidance for the Inner Journey(宇宙を旅する人:内なる旅のための本当のガイダンス)」という本では、磨りガラス越しの人物の内省する心情を想像させるような意図があると思います。こうやって見比べてみると、この写真に惹き付けられてきた人それぞれの持っているさまざまな考えがいかに投影されているのかがわかりますよね。
三枚目は、ラルフ・ギブソンの「ドアを通り抜ける手」という写真。これは彼が1970年に出版した『Somnambulist(夢遊病者)』という写真集に収録されています。ギブソンは縦位置、クローズアップでとらえた写真が多く、造形的で隠喩に充ちた、というか意味深なニュアンスを漂わせた作品で知られています。
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「Guilty Bystander(やましい傍観者)」では、ドアノブにかけられた手が、そっと部屋に忍び込もうとしている人物の存在みたいなものを想像させます。ミラン・クンデラの「Immortality(不滅)」にも使われていますが、タイトルと相まって、この手が何か時間を越えた霊魂のような存在を想像させたりもします。この小説は、原書がフランス語で日本語や英語の本として刊行されていますが、絵画やイラストを装幀に使ったバージョンでも、この小説の中に出てくる「手」がモチーフとして登場していますね。

□ 同じ写真が別々の本の表紙に使われるのも面白いし、同じ本が別々の装幀で作られているのを見るのも面白いですよね。だいたい本を手にとって買う時って、それが唯一の最終的な形だと思って見てしまうからね。ハードカバーの本がソフトカバー版になって出るときに装幀が変えられるっていうこともあるけどね。

■ あと、日本の例を一つ紹介しようと思います。今年って太宰治生誕100周年で、映画が公開されたり、出版社でもいろいろなフェアが開催されたりしていますよね。太宰治の代表作『人間失格』ですけれども、色々な出版社から文庫本が出ていて、それぞれに特徴がありますよね。岩波や新潮のようなオーソドックスな装幀のものは、お馴染みだと思うのですが、最近は若者に向けてアピールするべく各出版社が主張の強い装幀をしていますよね。たとえば、集英社文庫は『デスノート』のようなイラストレーションが使われていたり、ぶんか社文庫では、AKB48のメンバーの一人が本を持っている写真が使われていたり、角川文庫では祖父江慎のデザインで梅佳代のスナップ写真が使われていたりする。あと、松山ケンイチの写真が使われているものもあったりしますね。ほとんど雑誌の表紙のようにも見えます。こういうのって林さんはどう思います?
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□ 話題作りとして、こういう写真が使われるというのも解らなくはないけれど、こういう写真を見て小説の世界に対する想像が膨らむか、というとそんなこともないような気がするんですよね。ところで、僕が所属している日本図書設計家協会の企画で、「装幀の力」展という展覧会が秋に開催されるんですが、この展覧会は今年生誕100年を迎える太宰治と松本清張の作品をテーマに、20人のイラストレーターが装画を描き、1つの作品を3人の装幀家が書籍カバーに仕立てるという展覧会なんです。唯一写真家として参加しますので、こちらの方も見て頂けると嬉しいです。

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